考えることと想像力、個性について〜小林秀雄『学生との対話』より

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小林秀雄の『学生との対話』という本を読みました。この本は、批評の神と呼ばれる小林秀雄が学生に対して行った講演会(と質疑応答)の記録を、国民文化研究会が文字起こししたものです。

そこに書かれている内容はどれも面白く、凄みがあるのですが、今回はその中から「考えること」、「想像力」、「個性」という部分に注目して、一部を紹介したいと思います。

考えるとはつきあうという意味

宣長の言によると、考えるとはつきあうという意味です。ある対象を向こうに離して、こちらで観察するという意味ではありません。考えるということは、対象と私が、ある親密な関係へ入り込むということなのです。

「宣長」とは『古事記伝』で有名な本居宣長のことです。

ここでいう「考える」とは「人間について考える」ことを指します。そして小林は、「考えるということは、対象と私が、ある親密な関係へ入り込むということ」だと述べています。これは、どういう意味でしょう。

人間は生きていて、精神というものがある。だから、ほかの物質と同じように考えるわけにはいかない。ある人について考えようとするときには、その人の精神に寄り添わなければならない。だから「考える」とは、「その人の身になってみる」ということなのです。

そして、これは科学的な方法ではない──。小林は学生との対話の中で、科学的な方法の限界についてたびたび語っています。

自己を主張しようとしている人間は、みんな狂的

君は、自分を表そうと思っても、表れはしないよ。自分を表そうと思って表しているやつは気違いです。自分で自分を表そうとしているから、気が違ってくるんです。よく観察してごらんなさい。自己を主張しようとしている人間は、みんな狂的ですよ。そういう人は、自己の主張するものがどこか傷つけられると、人を傷つけます。

学生から「無私」について尋ねられたときの返答の一部です。これは、「本当の自己表現とはなんぞや」というテーマにも関わってくる部分です。

現代ではSNSの普及により自己表現をする人が増えましたが、そのためなのか、上記のような、「自己表現のための自己表現」とでもいうべきことをしている人が増えてきました。しかし、小林に言わせれば、そんなものは本当の自己表現ではないのです。

小林は常々、「人は無私になったとき、本当の自分が現れる」と述べています。無私というのは、客観的とは違います。なにかの事物に没頭するような精神こそが無私です。このとき、理性も主観も働いています──。

ちょっと難しいですね。でも、なんとなくはわかるでしょう?

想像力には、必ず理性というものがある

想像力という言葉を、よく考えてください。想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情もみんな働いている。そういう充実した心の動きを想像力というのだな。

想像と空想の違いについて。言われてみれば当たり前ですが、でたらめなことをイメージしたところで、でたらめなことにしかなりません。

感動している正体こそが個性

感動しなければ、人間はいつまでも分裂しています。だけど、感動している時には、世界はなくなって、自分自身と一つになれる。自分自身になるということは、完全なものです。莫迦は莫迦なりに、利口は利口なりに、その人なりに完全なものになるのです。つまり、感動している正体こそが個性ということですよ。

これは、上記2番目の「無私」についてと、本質的に言っていることは同じです。感動を大切にしましょう。

学生との対話 (新潮文庫)

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