能動的な愛を学ぶ〜『愛するということ』読書メモ

『愛するということ』という本を読んだ。タイトルどおり、愛について書かれた本だ。ここでいう愛は、恋愛にかぎらず、ありとあらゆる愛を含む。

本書の主題は「いかに愛されるか」ではなく、「いかに愛するか」にある。受動ではなく、能動。むしろ本書では、「いかに愛されるか」という受身の姿勢は否定している。

「愛は技術である」。序盤のほうに書いてあることだが、この言葉は、本書全体を包括する言葉でもある。愛は技術であり、学ぶことができる。それをもう少し詳しくいうと、次の言葉になる。

愛とは、 愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。

また、幼稚な愛、未成熟な愛、成熟した愛の違いに関しては、次のように述べている。

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

ところで、能動的な愛というと、自分を犠牲にして相手に尽くすというような状況が想像される。しかし本書では、そうした自己犠牲的な愛は否定されている。

愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。


(中略)


隣人を一人の人間として愛することが美徳だとしたら、自分自身を愛することも美徳であろう。すくなくとも悪ではないだろう。なぜなら自分だって一人の人間なのだから。そのなかに自分自身を含まないような人間の概念はない。

逆に言えば、自分自身を愛せない者は、隣人もまた愛せないということになるだろう。

もちろん、自分自身を愛することは、利己主義とは異なる。

利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。そのように自分自身にたいする愛情と気づかいを欠いているのは、彼が生産性に欠けていることの一つのあらわれにほかならないのだが、そのおかげで、彼は空虚感と欲求不満から抜け出すことができない。当然ながら彼は不幸で、人生から満足をつかみとろうと必死にもがくが、自分で自分のじゃまをしている。自分自身をあまりに愛しすぎているかのように見えるが、実際には、真の自己を愛せず、それをなんとか埋め合わせ、ごまかそうとしているのである。

さて、愛が技術だというなら、それはどのように習得すればいいのだろうか?

著者によれば、愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服であるという。

愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向のつよい人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

そしてもうひとつ重要なのが、「信じる」ということである。

愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。


(中略)


安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことによって安全をはかろうという人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。


(中略)


愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

これらを能動的な態度で実践していけば、「愛する」という技術を習得できる。それが、本書の要約である。

数十年前の本ではあるが、本書の価値は、現代においてはむしろ高まっているように感じる。たとえば恋愛面においては、「いかに愛されるか」という類のことばかり語られているからだ。実際、「いかに愛されるか」を極めようとする書籍(いわゆるモテ本)が数多くあり、これは一見すると能動的に見えるが、実は愛そのものに関しては受身の姿勢なのである。

そして、こうした受身の姿勢の愛は、必ず疑念を抱くようになると著者は警告している。つまり、なんらかの条件を満たしているが故に愛されているならば、その条件を失った瞬間、自分は愛されなくなるのではないか、という疑念だ。

そのような愛は苦しみしか生まない。だからこそ、人は、能動的に愛することを学ばなければならないのである。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版