『春宵十話』読書メモ

岡潔の『春宵十話』を読んだ。世界的天才数学者であるところの岡潔によるエッセイ。その存在自体はずっと前から知っていたのだが、今まで読む機会がなかった。この度、ようやく初読したしだい。

岡潔については、ここで説明を始めると長くなるので、Wikipediaに譲ります。数学をやっている人ならまず知っているでしょう。ここでは、「とにかくすごい人だ」ということだけ述べておく。

ja.wikipedia.org

ちょうど太平洋戦争を生で経験した世代ということもあり、現代人からは出てこない意見が数多くある。それだけに、いろいろな発見があった。

内容をまとめて語るのが難しいため、以下は本文を引用しつつ感想を述べていくこととする。

日本語の特性

日本語は物を詳細に述べようとすると不便だが、簡潔にいい切ろうとすると、世界でこれほどいいことばはない。

まったくですな。

日本語の特性を活かそう。

誰が話したかが重要

だれだれの話を聞くというので留学するのだから、よその国ではだめなのに、文部省はそんなこともわからなかったらしい。これも「人」というものが忘れられている例で、どの人がしゃべったかが大切なのであって、何をしゃべったかはそれほど大切ではない。

フランス留学したいと申し出た際に文部省から「そこじゃなくてあっちへ行け」と言われたときのこと。

これはつまり、「教育はどの先生に教えてもらうかが大切だ」ということに通じるものだと思う。

西洋と東洋の文化の型の違い

文化の型を西洋流と東洋流の2つに分ければ、西洋はおもにインスピレーションを中心にしている。たとえば新約聖書がインスピレーションを主にしていることは芥川龍之介の「西方の人」を見ればよくわかる。これに対して東洋は情操が主になっている。孔子の「友あり遠方よりきたる、また楽しからずや」などその典型的なものだし、仏教も主体は情操だと思う。木にたとえるとインスピレーション型は花の咲く木で、情操型は大木に似ている。

ギリシャ文化の系統といっても、2つの面がある。1つは力が強いものがよいとする意志中心の考え方である。芥川龍之介が「ギリシャは東洋の永遠の敵である。しかし、またしても心をひかれる」と表現し、また私の親友だった考古学者、中谷治宇二郎が「ギリシャの神々は岩山から岩山へと羽音も荒々しく飛び回っていた。しかし、日本の神々は天の玉藻の舞いといったふうだった」と述べたのもこの点を指したものだと思う。この部分は決してとり入れてはならない。何事によらず、力の強いのがよいといった考え方は文化とは何のかかわりもない。むしろ野蛮と呼ぶべきだろう。

しかし、ギリシャ文化にはもう1つの特徴がある。それは知性の自主性である。これはまだほとんど日本にははいっていない。文化がはいっていないということは、その文化の基調になっている情操がわかっていないということにほかならないが、ぜひこれはとり入れてほしいものだと思う。

普段は西洋と東洋の文化の違いというものを意識する機会はないので、言われてみるとなるほどと思う。

ここで重要なのは「何事によらず、力の強いのがよいといった考え方は文化とは何のかかわりもない。むしろ野蛮と呼ぶべきだろう」という部分で、これはまったくそのとおりだ。しかし、現実の世の中では「力の強いのがよい」とか、「売れたものが正義だ」といった考え方が蔓延している。こうした考え方に絡め取られないように気をつけたい。

自然に従う

私の生活のやり方は、一言でいえば自然に従うということである。私の研究時間は、おもに夜考える「夜型」の時と、おもに昼間考える「昼型」の時とがあるが、季節によって、また日によって、どちらになるか別に決めているわけではない。ただ私自身の生理状態に従って夜型であったり昼型であったりするだけで、すべて自然にさからわないようにしている。夜ふとんに入ってからは考えるともなく考えており、おそいときは夜明けまでそのまま考えている。暗闇の中だが、心の中にあるものを心の目で見ているだけだから別にあかりは必要はない。

そもそも人間にはそれぞれに合った自然的な生活があるものだが、悲しいことに、社会は朝型の人間に合わせて回っている。大半の会社で午前中の出社を義務づけているのがその証拠だ。これは人道に反することだ。一刻も早く多くの人々が自然的な生活を送れるような社会になってほしい。

宗教と理性

宗教と理性とは世界が異なっている。簡単にいうと、人の悲しみがわかるというところに留まって活動しておれば理性の世界だが、人が悲しんでいるから自分も悲しいという道をどんどん先へ進むと宗教の世界に入ってしまう。そんなふうなものではないかと思う。いいかえれば、人の人たる道をどんどん踏みこんでゆけば宗教に到達せざるを得ないというところであろう。

またキリスト教の人たちでも、たとえば安部磯雄、賀川豊彦といった人が世の悲しみをなくすためにいろいろな活動をした。それはもちろん立派なことに違いないが、それ自体は理性的な生き方であって宗教的な生き方とはいえないのではないか。こうした奉仕的な活動は、おおらかに天地に呼吸できるという満足感を与えるけれども、それは理性の世界に属することだと思う。いまも普通は宗教的な形式を指して宗教と呼んでいるようだが、これは分類法が悪いのだという気がする。

理性的な世界は自他の対立している世界で、これに対して宗教的な世界は自他対立のない世界といえる。自他対立の世界では、生きるに生きられず死ぬに死ねないといった悲しみはどうしてもなくならない。自と他が同一になったところで初めて苦しみが解消するのである。

宗教の世界には自他の対立はなく、安息が得られる。しかしまた自他対立のない世界は向上もなく理想もない。人はなぜ向上しなければならないか、と開き直って問われると、いまの私には「いったん向上の道にいそしむ味を覚えれば、それなしには何としても物足りないから」としか答えられないが、向上なく理想もない世界には住めない。だから私は純理性の世界だけでも、また宗教的世界だけでもやっていけず、両方をかね備えた世界で生存し続けるのであろう。

人間には宗教的世界と理性的世界がある。これは岡潔の思想の根幹をなす部分なので多めに引用した。

引用部分にあるとおり、ここでいう「宗教」とはキリスト教や仏教といったことを指すわけではない。人間の心の状態を指している。たとえるなら、仏師が一心不乱になって仏像を彫っているときのような状態か。あるいは、個人的な信仰。

正直なところ、ここで述べられていることは僕自身も完全に理解しているとは言い難い。なんとなくはわかるのだが……。

はっきり言えるのは、現在の人々は理性的世界ばかり見ており、宗教的世界はないがしろにされているということだ。論理は発達しているものの、精神がそれに追いついていない。TwitterやFacebookなどのSNSで争いが絶えないのもこのためだろう。

僕もまた、理性的世界における自他対立に苦しんでいる。だからここで岡潔が言うところの「宗教」の世界に入っていかなければ、と思う。

教育現場で起こっていること

近ごろは集団として考え、また行動するようしつけているらしいが、これこそ頭をだめにしてしまう近道だと思う。人の基本的なアビリティーである他人の感情がわかるということ、物を判断するということ、これは個人の持っているアビリティーであって、決して集団に与えられたアビリティーではない。学生たちに最初から集団について教え、集団的に行動する習慣をつけさせれば、数人寄ってディスカッションをしないと物を考えられなくなる。しかしそれでは少なくとも深いことは何一つわからないのだ。

個人性を大事にしようね。

それで私は日教組の先生たちのやり方にも疑問を持っている。団体交渉などといって集団的に行動し、しかも怒りの気持を含めている。人というものが怒っているときに正常な判断を下せるかどうか、だれにでもわかるはずだ。あんな気持を教室にまで持って帰られてはたまらない。そういうことを先生たちに考えてほしいと思うのである。

これは当時の話だが、現代でも社会運動をやる人々というのはほぼ間違いなく怒っている。特に最近の日本では、フェミニストとかジェンダー関連で常軌を逸した怒りがまき散らかされている。そういうのを見ると、ここで岡潔が述べている「人というものが怒っているときに正常な判断を下せるかどうか、だれにでもわかるはずだ」という言葉の重みを実感する。

春宵十話 (角川ソフィア文庫)

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