『悲観する力』読書メモ

森博嗣の『悲観する力』という本を読んだ。悲観することのメリットについて書かれていた。わざと世間の逆を行く森博嗣らしい本だ。

実のところ本書のメッセージはシンプルだ。「失敗やアクシデントを想定し、備えておくこと」。これが悲観する力だ……と述べられている。書かれている内容のほとんどは、このメッセージはさまざまな角度から取り上げているに過ぎない。

まあ、一般論としては正しい。個人にせよ企業にせよ、あるいは国家にせよ、失敗に備えておくことは大事だ。リスクヘッジとも呼ばれている。

ただし、あくまで一般論の域を出ない。リスクヘッジの重要さはわかっていても、それを100%実行できるかはまた別だ。

ところが、本書は、明らかに一般論の域を出ているであろう事柄にまで悲観のメリットを説こうとしている。そのせいで無理やりな部分が生じてしまっている。

たとえば、自分が打てる手にはかぎりがあるが、手が回らなかった部分はどうすればいいのかという問題に対して、森博嗣は「自分にできることを尽くしたのなら自信になるだろう」と書いている。本当にそうか? 打てる手が多い人なら自信になるのかもしれないが、なんらかの大きなハンデを抱えている人だったら、打てる手の少なさに無力感を覚えるだろう。こうした視点が欠けている。

一番おかしいと思ったのは、自殺についた書かれた部分だ。少し引用しよう。

あまりに未来を「悲観」しすぎて、自分の死を早めようと考える人もいる。だが、これは、既に他書に書いたが、死によって、絶望から逃れられるという「楽観」である。僕は、自殺する人は、平均的にみれば楽観主義者だと考えているくらいだ。まず、悲観的な人は、自殺を考えるような窮地に追い込まれる以前に、なんらかの手を打っている。その段階まで楽観していたから、そんな場面が急に訪れ、深く考える間もなく、衝動的に死を選択してしまう。この潔さが、非常に楽観的なのだ。

まず、最初に「未来を悲観しすぎて」と書いているにもかかわらず、その直後に「自殺する人は平均的に見れば楽観主義者」と述べている。ここがすでに矛盾している。楽観主義者なら、自殺を考えるような窮地も「なんとかなる」と考えるのが普通だろう。自殺する人は、もともと悲観的な傾向があり、あらゆる手段が無駄に終わったら死ぬしかないと思っている。だから自殺するのである。

死によって絶望から逃れられるのは「楽観」、というのもわからない。なんだろう。自殺したら魂が地獄に堕ちる、という宗教的な価値観だろうか。もちろん、魂というものが実在し、自殺によって地獄に落ちる可能性は存在する。ただし、その可能性は限りなく低い。少なくとも、科学的には証明されていない。となれば、現世で頑張るよりも、死んだほうが楽になれる確率は高い、と考える人がいてもおかしくはない。

早い遅いの差はあれ、どうせ誰でも死ねるのだ。しかし、少なくとも死ぬまでは生きていたのである。生きていたから、過去を背負っているわけで、過去の自分に対して感謝をすべきだ。そこで、過去の自分を楽観視できる人間なら、おそらく死を早めようとは考えないだろう。過去の自分を否定しているから、むしろ恨んでいるから、死ねるのだと思う。

「生きていたから、過去を背負っているわけで、過去の自分に対して感謝をすべきだ」──この部分はまったく意味不明だ。過去を背負っていることと、過去の自分に対して感謝をすることがどうつながるのか?

自殺を考えている人に、僕がいえるとしたら、「もっと悲観しなさい」である。悲観が足りないから、死んだらすべてが解決できる、と楽観してしまうのだ。考えが足りないというよりは、おそらく考えられなくなっている状態だろう。

繰り返すが、『あまりに未来を「悲観」しすぎて〜』という一文と矛盾している。というか、「考えられなくなっている状態」の人に「もっと悲観しろ」=「もっと考えろ」というのもかなりおかしい。

……と、このように、一般論を超える範疇にまで「悲観の力」を説こうとした結果、理屈に無理がある箇所がいくつか生じている。こうした箇所を読むことで、逆に「楽観も大事なのだな」と思えてきた。

それはそうと、悲観を極めていくと死へ向かうというのが、まさに「悲観」の本質を表していると思えてならない。死へ向かうということは、生の執着を断ち切るということだ。本書で述べられているリスクヘッジについても同じことが言える。失敗したときのプランを用意しておくことは、ある対象に執着しないということだ。この「執着を断ち切る」という点こそが、悲観が持つ力の本質であるように見える。

悲観する力 (幻冬舎新書)

悲観する力 (幻冬舎新書)