ショーペンハウアーの『読書について』の覚え書き

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Kindleのライブラリを眺めていたら、ショーペンハウアーの『読書について』があった。

はて、いつの間に購入したのだろう……。

本をタップして開いてみると、読了もしている。しかし、記憶にない。

3年前にこのブログで、「スキマ時間」について書かれた箇所に触れているのだが、それ以外の内容が思い出せない。

どういう内容だったっけ……と再読してみる。

読み進めているうちに、なんで本書の内容を忘れてしまったのかわかった。

最初はいいことを言っているのだが、途中から同じ内容の批判ばかり繰り返されるのだ。あまりにしつこいため、途中から嫌気が差して流し読みしてしまったのだ。だから記憶に残らなかったのだ。

とはいえ、再読してみて、前半は良い部分が多いと感じた。そこの部分をメモしていこう。

多読について

自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。

(中略)

学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人間の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ。

ショーペンハウアーは多読というものをまったく否定している。どんなにたくさん本を読んだところで、自分の頭で考えなければ知性というものは育たない、と。

この指摘は現代になって特に大きな意味を持つようになった。というのも、現代ではWebのおかげで、知らない情報を簡単に検索できるようになったからだ。

それはつまり、相対的に「博識であること」の価値が減ったことを意味する。今後はますます人間自身の知性が重要になるだろう。

物書きのタイプについて

まず物書きには二種類ある。テーマがあるから書くタイプと、書くために書くタイプだ。第一のタイプは思想や経験があり、それらは伝えるに値するものだと考えている。

(中略)

さらにまた物書きには三通りあるといえる。一番目は考えずに書くタイプ。記憶や思い出、あるいは他人の本をそのまま借用して書く。このタイプはたいへん数が多い。二番目は書きながら考えるタイプ。書くために考える。このタイプもよくいる。三番目は、書く前からすでに考えていたタイプ。考え抜いたからこそ書く。このタイプはめったにいない。

要するに、本や記事を書く前にちゃんと考えろ、ということです。

最新刊に手を出すことについて

だからあるテーマを研究しようとしたら、学問はたえず進歩しており、最新の本には過去の知見が反映されているという誤った前提のもとに、最新刊にそそくさと手を出すのはひかえるべきだ。

人間には「新しい本ほど最新の知見が書かれているはず」というバイアスがある。だがそれは、所詮バイアスにすぎない。

本のタイトルについて

手紙の宛名にあたるもの、それは本のタイトルだ。目的はなによりも本の内容に興味をもってくれそうな読者層に送り届けることだ。だから書名は特徴的なものであるべきだ。基本的にみじかく、簡明で、簡潔で、含蓄に富み、できれば内容をモノグラム化(頭文字を組み合わせて図案化)したようなものがいい。

ショーペンハウアー先生による、本のタイトルをつけるコツ。

素材と表現形式について

思想の価値を決めるのは、素材か、表現形式だ。素材とは「何について考えたのか」であり、表現形式とはどう素材に手を加えたのか、「どう考えたのか」だ。

(中略)

しかしながら一般読者は表現形式よりも、素材にずっと多くの関心を向け、まさにそのためになかなか教養がつちかわれない。

(中略)

素材によって効果をねらう悪しき傾向に拍車をかける企ては、作品価値を表現形式で問うべき領域、すなわち文学の領域では、どうあっても排すべきだ。

僕も油断していたら素材のほうばかり目を向けてしまうので気をつけないとな……。

優れた文体について

すぐれた文体であるための第一規則、それだけでもう十分といえそうな規則は、「主張すべきものがある」ことだ。これさえあればやっていける。

主張すべきもの=テーマですね。ショーペンハウアー先生は常々テーマの重要性を説いておられる。

後半部分について

と、以上が前半部分で「良い」と思ったものである。

後半からは「匿名でいい加減なことを述べる批評者に対して」と「当時のドイツ人の文体が乱れてきていることについて」への批判に移り、内容がそればかりになる。

批判自体はかまわないのだが、同じ批判ばかり繰り返されるとさすがに辟易してしまう。こういう反面教師的なところもあるのが、本書の特徴といえば特徴だろう。

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)