プライバシーを放棄した先に待つもの〜『ザ・サークル』感想

恐ろしい。背筋がぞっとする。

『ザ・サークル』という小説を読んだ。この小説はエマ・ワトソン主演で映画化されており、日本でも公開が決定している。管理社会の誕生を描いたSF作品だが、そこに登場するテクノロジーは現代の延長線上にある。

この作品は、行き過ぎた透明化の恐怖を描くことによって、逆説的に、なぜ匿名の権利が守られなければならないのかを示している。

透明化を推し進める「サークル」

ストーリーの舞台になるのは、「サークル」という架空の企業。この企業はGoogleやFacebook、Twitterを融合させたような会社だ。ほかの主だったIT企業は、このサークルによってほぼ絶滅状態にあるという設定。

サークルはネット上の実名化を推し進めており、この企業の台頭によって、人々は実名を晒すのが基本になってしまった。それどころか、「透明化こそが正義」と考えるサークルによって、誰が、どこで、今何をしているか、簡単に検索で探せるようになっている。

意識高い系の主人公

主人公のメイは、親友の紹介でこの会社に転職してくる。このメイという人物は、いわゆる「意識高い系」の性格だ。意識高い系の特徴は「自分では意識が高く、優秀なつもりだが、実際にはバカそのもの」という点にあるが、このメイは、まさにそのとおりの姿を披露してくれる。最初のうちはサークルがやっていることに違和感を抱くのだが、上司や経営者に洗脳されていき、第2部からは完全なイエスマン(バカ)になる。

どれくらいバカかというと、ある日経営者から「透明化のために1日ずっと小型カメラでライブ配信しながら行動してくれ。トイレに入るときと寝るとき以外は常にカメラはオンで」と命令されるのだが、こんな無茶苦茶な命令にも「はい、わかりました」といって、本当に実行してしまう。しかも彼女自身は、この仕事を重要な使命だと思っている。まさしくバカだ。

「プライバシーは悪」という思想

ちなみに、この「1日ずっとライブ配信」は、もともと政治家か自身の潔白を証明するために始めたもので、1日だけライブ配信するのではなく、365日無期限で配信を続ける。明らかにプライバシーはなくなるが、そもそもサークル社の連中は「プライバシーは悪」と考えているような人間ばかりなので、むしろ歓迎している。もちろん政治家の中には反対する人もいるが、そういう人は「何かやましいことをやってるんだろう」と批判されて、賛成せざるを得なくなる。さらにサークルは政治の世界に食い込んでいき、せっかく実名制なんだから、投票システムもサークルで管理しようぜとか言い出す。もうこの時点で管理社会の片鱗が現れている。

また、サークル社は「シーチェンジ」という小型の高性能カメラを開発する。このカメラは親指よりちょっと大きいくらいのサイズで、簡単に隠すことが可能。加えて、2年間も連続で稼働していられる超高性能バッテリー付き。もちろんネットにもつながる。というか、ライブ動画をネットにアップして誰もが見られるようにすることが目的。こんなのどう考えても盗撮カメラじゃんとしか思えないのだが、前述のとおり、サークル社はプライバシーを憎んでいるので、喜々として世界の至るところにシーチェンジを設置していく。

このようにサークル社はかなり頭がおかしい会社なのだが、一番の問題は、この会社がやることなすことに大多数の人々は賛成しているという点。「犯罪を未然に防ぐ」とか「税金の無駄を減らす」とか、いかにもそれっぽい理由で支持を集めていく。

そして極めつけに、マイクロチップを子供に埋め込んでトラッキングしたり、サークルのアカウント取得を国で義務化しようとしたりする。こうなると生まれてから死ぬまでの一生をサークルに監視されるようになる。つまり、誰もサークルに逆らうことができなくなる。実際、本作は管理社会の誕生を予感させて幕を閉じる。

全体主義の恐怖

『ザ・サークル』はテクノロジーによる行き過ぎた透明化の恐怖を描いているが、もう1つ、重要なテーマに「全体主義」がある。全体主義とは、個人は全体に従属すべきであるという思想だ。全体主義の社会においては、個人は私生活レベルで身を尽くさなければならない。実際、本作では「コミュニティの権利」という言葉が何度も出てくる。コミュニティの権利の前には個人の権利など存在しないも同然、というのがサークル経営者の思想だ。たとえば、本人が隠しておきたい恥ずかしい情報なんかも、コミュニティには知る権利があるのだから公開すべし、と考える。それで本人が傷つこうがおかまいなしだ。

特に恐ろしいのが、全体主義者は、自らに同調しない人間の意見なんか一切きかないところだ。これが最も表れているのが主人公のメイだ。終盤、メイの元カレ(サークル反対派)が極悪なストーキングをされて死亡するという事件が起こるのだが、そこで彼女は、「サークルの崇高な使命を理解しなかった元カレが悪い」などと結論する。さらに、親友が、先祖や両親の悪どい過去が判明して追い詰められるのだが、彼女はそんな親友に対し、先にネットで情報を公開して励ましを呼びかける。誰にも知られたくなかった情報が、大勢の人々にさらされた結果、親友はストレスが限界に達して意識不明になってしまう。明らかにメイのやったことが原因にもかかわらず、彼女は、自分は正しいことをやったと思い込んでいる。悪意がないぶん、余計に始末が悪い。

個人の権利を守る

この小説が恐ろしいのは、登場するテクノロジーがどれも身近なものであり、このまま技術が発展していけば、そう遠くない未来にサークル社と同じことができるようになってしまう点にある。加えて、意識高い系は反対意見に耳を貸さない傾向があるので、その点も危険性がある。また、「公的機関と私的企業の壁が破られてはならない」という論点もあり、この辺は図書館運営に食い込みつつあるTSUTAYAを思い起こす。いずれにせよ、私的企業はどんなに綺麗事を並べても利益追求が第一なのだから、信頼しすぎてはいけない。もし一企業に社会システムを委ねるようなことになれば、『ザ・サークル』の二の舞いになる。

そして一番重要なのは、個人の権利は守られなければならない、ということ。作中で、メイたちサークルの人間は「自分たちがやっているのは民主主義」と思い込んでいるが、上で述べたように、肝心の「個人の権利」がないがしろにされている。サークルが作り出す社会では、人類は常にネット上で監視されていなければならず、拒否する自由はない。

なぜ個人の権利は守られなければならないのか。それは、個人が弱者だからだ。普通に考えてみればわかるが、企業や、あるいは政府といった組織に対して、個人の力なんて微々たるものだ。下手をするとすぐに支配されてしまう。だからこそ民主主義国家では、憲法で個人の権利を保障しているのだし、それがちゃんと守られているかどうか、国民は注意しなければならない。