名作小説の映画化もまた名作だった──映画『沈黙 -サイレンス- 』感想

少し前に、映画『沈黙 -サイレンス- 』を鑑賞してきた。名作小説の映画化であるが、本作もまた名作だった。素晴らしいとしか言いようがない。

原作の『沈黙』は、遠藤周作による、江戸時代のキリシタン弾圧を描いた小説。僕は学生時代にこの小説を読み、そこに込められた深い精神性に打ちのめされた。人生観に影響を与えたといっても過言ではない。そのため、今回の映画化の話を聞いたときから大きな期待を寄せていた。

監督は、名作『タクシードライバー』で有名なマーティン・スコセッシ。この小説のファンだったという。ウィキペディアの情報によれば、少年時代はカトリックの司祭を目指していたらしい。そういう背景もあってか、本作の出来は並々ならぬものになっている。

ちなみに米タイム誌は、2016年の映画トップ10の第5位に本作を選んだ。

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『沈黙』のあらすじ

江戸時代初期、日本で布教を行っていたフェレイラ神父が、宗教弾圧に屈して棄教してしまったという報告がイエズス会に届く。

恩師が棄教したことを信じられないロドリゴ神父は、友人のガルペ神父とともに自らも日本へ赴く。途中、マカオで出会ったキチジローの手引により、日本へ密入国した2人は、トモギ村の隠れキリシタンたちに歓迎される。

遠い異国の地でも信仰が生きていたことを喜ぶ2人だったが、まもなく長崎奉行による弾圧の手がトモギ村を襲う。村人たちに匿われるロドリゴとガルペだったが、その代償として村長をはじめとする3人が処刑されてしまう。

その後、2人は追手から逃れるために別々に行動する。1人旅を続けるロドリゴは、キチジローと再会するも、彼の裏切りによって捕らえられてしまう。

長崎に連行されたロドリゴに、数々の試練が襲いかかる。果たして、彼の運命は? そして行方不明のフェレイラ神父はどこにいるのか?

苦難の旅の末、ロドリゴは神の沈黙の秘密に気づく──。

百姓がキリスト教を信仰している理由について

この映画では、日本人のキリシタンが拷問され、処刑されていく。

現代人の感性からすれば、わざわざ命の危険を犯してまでキリシタンを続ける意味がわからないかもしれない。これについて、僕なりの見解を書いておこう。

江戸時代は身分制度社会であり、職業は原則として世襲制だ。そのため、トモギ村のような地方村の百姓に生まれてしまうと、その時点で弱者の人生が約束されてしまう。

作中で現地のキリシタンとして登場するのは百姓ばかりだが、これは彼らが、弱者としての人生に少しでも意義を見出すため、キリスト教に縋るしかなかったからだろう。仏教徒にならなかったのは、仏教は彼らを支配している幕府公認の宗教だったので、胡散臭さを感じていたのではないか。

ちなみに長崎奉行のボスであるイノウエ様も元キリシタンとされている。仮説レベルなので実際はどうだったか知らないが、原作では、「キリスト教は日本には根付かない」という観念によって棄教している。だが現実には、やはり支配階級である大名が、幕府に逆らってまでキリシタンを続ける理由がなかっただけではないかと思う。

見どころはキチジロー

原作もそうだが、映画の見どころはキチジローの存在だろう。本作では窪塚洋介が演じている。この物語はキチジローなくしては成立しないが、窪塚洋介は見事にこの役を演じきってみせた。

『沈黙』は弱者の存在がテーマの1つになっているが、キチジローは、物語において弱者を代表する人物だ。

物語の開始以前、弾圧によって家族を失い、一度は棄教してしまった彼だが、ロドリゴと出会ったことで再び信仰を取り戻そうとする。

ところが弾圧の手が迫ってくると、ほかのキリシタンが信仰を守り抜いて死んでいくのに対し、キチジローはあっさり踏み絵を踏んでしまう。そして事が済むと、また信仰の復活を求めてロドリゴ神父に許しを乞う。

はたして、キチジローはいい加減な性格なのだろうか? そうではない。キチジローの言動に軽薄さは見られず、むしろ必死さが漂っている。彼は本気で信仰を求めている。だが彼の弱さが、自分の願いについていかないのだ。これは現代人に例えると、「夢があるのに、夢のための努力ができない」という状態に近いかもしれない(もちろん弾圧を受けているぶん、こちらのほうが深刻であるが)。そういう意味では、キチジローの弱さは人間の普遍的な弱さなのだ。

映画を見た人の中には、キチジローに対して嫌悪感を抱く人もいるだろう。しかし、キチジローを通して描かれる弱さの問題は、「嫌悪」のひと言で片付けられる問題ではない。誰の中にも存在する問題なのだから。

以下、本作の結末に触れます。

神はなぜ沈黙しているのか

ここからネタバレに踏み込む。

ほかのレビューをいろいろ読んだところ、「題名が沈黙なのに、最後の踏み絵のシーンで話しかけているではないか」という意見があった。実際、このシーンは原作が発表された当時もキリスト教徒の間で論争になったらしい。

しかし、僕はこのシーンに賛成だ。

そもそも本作のテーマは、「神はなぜ沈黙しているのか?」という問いへの答えを出すことにあった。そして提示された答えは、「沈黙しているのではない。一緒に苦しんでいたのだ」というものだった。

「沈黙している」という前提がひっくり返される。そこにこそ本作の文学的な価値がある。なので、タイトルはこれでいいのだ。

そしてこの答えは、人生の中で苦痛を感じているときに大きな力になる。苦しみを感じているとき、我々はひとりなのではない、イエス様も一緒に苦しんでいる。そうした考えは、苦痛をやわらげはしないものの、苦痛の中にある孤独感はやわらげてくれる。

苦しみを抱いている人、自分の弱さに嫌気が差している人、そういう人にとって、この映画は大きな意味を持つだろう。