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姫呂ノート

散文的な個人ブログ

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『君の名は。』の映像に圧倒されたことと物語に感じたむなしさについて

映画

興行収入が100億を突破したことで話題の映画『君の名は。』。今月の半ばに見てきたので、感想を書こうと思う。

ちなみに、小説版も読了済み。順番的には最初に小説版を読んで、次に映画を見た。すぐに感想を書かなかったのは、まだ公開中の映画なので、時間がたってネタバレが許されてくるまで待とうと思った次第。

小説版を読んだ時点では、そんなに面白いとは感じなかった。視点の移り変わりが激しいこともあって、題材からして小説に向かないのでは、というのが第一印象。また、ストーリー自体も褒める気にはならなかった(これについては後述する)。

そういうわけで、期待値を下げて映画を見てきたのだが、これが意外と楽しめた。ストーリーはほとんど同じだったが、映像の力に圧倒された。

キャラクターで言えば、まず何よりも三葉ちゃんが可愛い。この可愛さは小説版では味わえない。神事のシーンとかは10代なのにもの凄い美人に描かれていて、なんで同級生はいじめているのかと思った。特に男。いじめている場合じゃないだろ、誰かに取られないうちにさっさとアプローチしておけよ、と思った。

風景も美しい。クレーターと化した糸守町や終盤の雪が降る都会などが凄いが、やはり一番は彗星だろう。悲劇の象徴でありながら光り輝くその姿は、さながら死の女神といったところか。これらの美しい絵は小説では味わえないものであり、『君の名は。』は映画でこそ映える作品だということを強く感じさせられた。

ただ、冒頭でも述べたが、僕としてはストーリー自体を褒める気にはならなかった。一見するとポジティブな内容なのだが、よくよく考えていくと、むなしさを感じざるを得なかった。

まず、『君の名は。』のストーリー展開には、いろいろ突っ込みどころがある。その最たるものは、瀧と三葉の入れ替わりに関するものだ。中盤において、実は2人の時間軸には3年のズレがあることが明らかになるのだが、この2人が入れ替わりの最中にそれに気づかなかったのは、どう考えても不自然だ。一応、物語内では「入れ替わっていたときの記憶は、元の身体に戻ると、夢を見ていたように曖昧になる」という設定になっているのだが、どうにも言い訳くさい。脚本の都合を感じる。宮水家の能力が、あの大災害を防ぐために備わったのだというのであれば、やはり、3年のズレは最初から認識できていたほうが有利だ。そうしなかったのは、それをやってしまうと物語がすぐに解決してしまうからだろう。しかし、そのために「記憶が曖昧になる」という設定にしたせいで、いろいろ不自然になってしまっている。

実は、この「脚本の都合」という批判を躱す手がないわけではない。それは、「記憶が曖昧になることも含めて、最初から最後まで運命だった」というふうにすればいいのである。入れ替わりの対象に瀧が選ばれたことも、2人が惹かれ合ったことも、その後の大災害を回避したことも、すべて運命に定められていた。そういうことならば、諸々の不自然さが一気に解消される。

たとえば、瀧と奥寺先輩がデートすることになった一件で、瀧と三葉は互いに恋心を自覚するのだが、それまで相手に惹かれている描写はまったくない。「恋をした瞬間」が描かれないことはまったく問題ないが、それまで気がある素振りを見せなかったのに、いきなり涙を流すのはどう考えても不自然だ。しかし、これは「最初から相手に惹かれる運命だった」とすれば解決する。

また、終盤の避難計画で、三葉の友人たちが協力してくれるのだが、いくらなんでも「隕石が落ちてくる」という突拍子もない話を半信半疑のまま協力──しかも明らかな重犯罪に──するのはおかしい。三葉の肉親である祖母が「誰も信じない」と冷たい態度だっただけに、なおさら不自然さが際立っている。しかし、これも「友人たちが協力してくれるのは運命だった」とすれば、おかしいところはなくなる。

「すべては運命だった」という設定は強引なように思われるが、当の新海誠監督が、インタビューにおいて「運命の人はいる、ということを伝えたかった」と述べているため、この作品は運命論に基いていると解釈するのはおかしいことではない。むしろ、真っ当な解釈だろう。

しかし、そうすると、最後に2人が再会したことも運命だったということになる。瀧と三葉は自分で考えて行動していたようで、すべて運命の手のひらの上だったということになる。その場合、あのラストで感動することができるだろうか。

避難計画中に三葉と邂逅した際、瀧は、「世界中のどこにいても必ず会いに行く」と宣言した。だが、その後、瀧が三葉を探しに行くことはなかった。もしここで、瀧が薄れゆくかすかな記憶を頼りに三葉を探しに行ったのであれば、印象は変わっていたかもしれない。あるいは、三葉が瀧を探した場合でも同様だろう。しかし、2人は最後の最後で肝心なことを行動に移さず、結局は運命に流されるままに再会した。

そもそも、作中の物語があらかじめ運命で決められていたのだとすれば、瀧や三葉だけでなく、その他の人物も含めて、この世界には人間の自由意志による行動というものは、一切存在しなかったことになる。そしてそれは、瀧や三葉のように運命によってハッピーエンドを迎えられる人間もいれば、逆に運命によって、どう抗ってもバッドエンドを迎えてしまう人間が存在する、ということでもある。

たとえば、男女の比率でいえば、世界は女性よりも男性のほうが多い。単純に女性1人と男性1人が結婚したとして、どうしてもあぶれてしまう男性が発生してしまう。ここで、男女の仲が最初から運命で決められていたとすると……なんだか、努力するのが馬鹿馬鹿しくなってこないだろうか。

このように、運命論で物語を描くということは、人間の自由意志と努力を無価値に描いてしまうことになりかねない。他作品でいえば、荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』の第5部・第6部がその辺りの葛藤と向き合っていたのだが、どうも『君の名は。』はそこまで考えていなさそうなのが残念だ。

少し長くなったが、僕がこの物語にむなしさを感じたのは、そういう理由だ。ただし、最初のほうにも書いたが、映像は本当に美しくて満足だったので、それだけでもこの映画を見た価値はあったと思っている。映像の美麗さはジブリを超えていた。