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姫呂ノート

散文的な個人ブログ

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「人生に、文学を。」がプロの仕事だと思う理由〜あるいは「広告」と「思想の自由」について

社会

www.jinsei-bungaku.jp

ひと目見て、これはプロが書いた文章だと直感した。誰が書いたのかはわからないが、これを書いた人は、プロの文筆家が成すべき仕事をよくわかっている。

つい先日からネット上を賑わせている「人生に、文学を。」というサイトだが、そこに書かれている文章が実に興味深い。明らかに特定の広告効果を狙ったもので、そしてその狙いは的中している。

「人生に、文学を。」が話題になった理由は、以下の文章による。

文学を知らなければ、
目に見えるものしか見えないじゃないか。
文学を知らなければ、
どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)

この「(アニメか?)」の部分に過剰反応したアニメオタクたちが、「アニメが見下されている!」としてネット上で怒りの声を次々に上げている。それで話題になった。

「人生に、文学を。」は、「本を読むこと」について語り合うティーチイン・イベントの告知に関するサイトだ。現段階ではイベントの詳しい予定は記載されておらず、開催の予告だけが発表されている。いわゆるティザーサイトというやつだ。

(ティザーサイトとは、正式発表前の新製品やイベントなどの断片的な情報を先に公開し、閲覧者の興味を引くことを目的としたプロモーションサイトのことである)

ところで、ネット上では「こんなに大勢の人が怒っているのだから、広告として失敗しているのでは」という意見が少なくない。だが、それは間違っていると言っておこう。今回の騒ぎは、運営側が意図して狙ったものだ。その可能性が高いと僕は見ている。

上述のとおり、ティザーサイトの目的は閲覧者の興味を引くことだ。しかし、今の時代、「本を読むことについて語り合う」というイベントは、どうしてもインパクトが低い。本読み自体が減っているし、読書会という類似イベントも数多く行われている。おそらく、普通にサイトを公開しただけでは、なにも話題にならない。

そこで運営側は、広告効果を高めるために、アニメオタクをターゲットにすることにした。といっても、アニメオタクにイベントに来てもらうことが目的ではない。運営側の目的は、アニメオタクに「サイトの拡散」を手伝ってもらうことである。

その目的を達成するための方法が、「(アニメか?)」という一文だ。このいかにも余計な一文は、当然、アニメオタクが怒ることを狙っている。ネット上のアニメオタクの多くは、「自分の好きなものが馬鹿にされている」と感じると、反射的にその怒りを共有しようとする性質がある。その性質を逆手にとったのだ。

狙いどおり、アニメオタクたちは「人生に、文学を。」というサイトを、(怒りの声とともに)拡散し始めた。あまりに話題になったからか、「ねとらぼ」という大手サイトが運営元に質問して、それを記事にするまでになった。もちろん、こういった反応も織り込み済みだろう。運営は想定どおりに「アニメを侮辱する意図はございません」と答えた。

この「(アニメか?)」の一文が巧みなところは、これだけではアニメを侮辱しているのか、そうでないのか、判然としないところにある。「文学のほかにアニメっていう選択肢もあるよね」という好意的な読み方も可能なのだ。よって、「アニメを侮辱しているのか」という批判にも「それは誤解です」と答えることができる。それでも騒動が収まらないようなら、謝罪してこの一文を取り下げればいい。こういった防御も想定している点が、プロの仕事を感じさせる。

なにより広告として優れているが、アニメオタクという、基本的には文学と無縁であり、かつネット上での拡散力が高い人種をターゲットに設定したところだ。彼らが読むであろうライトノベルも広義的には文学だが、運営はライトノベルは範疇外としている。それを象徴するのが、「一年に二度、芥川賞と直木賞」という一文だ。これは、「芥川賞と直木賞をチェックしているような人種が対象ですよ」という運営からのメッセージだろう。

今回の広告によってアニメオタクからは嫌われる結果になったが、彼らはもともとこの手のイベントにはまず参加しない人種なので、嫌われたところでたいしたマイナスにはならない。それよりも、ネット上でサイトを拡散してもらえるほうがはるかにプラスである。マザー・テレサが言うように、「好きの反対は嫌いではなく、無関心」であり、言い換えれば、「無関心よりは嫌われたほうがマシ」なのである。実際、僕も「人生に、文学を。」を知ったのは、アニメオタクによるリツイートでタイムラインに流れてきたからだ。感想はともかく、広告としては大成功している。

「それでも人を煽るのは悪いことだ」という人もいるだろう。しかし僕の意見を言わせてもらえば、「プロの文章とは、大なり小なり人を煽るもの」だし、もっと大げさにいえば、「まったく人を煽らないで成り立つ商売はない」のである。どんな商売も広告なしには成り立たず、そして広告の役目は人を煽ることだ。文章だけでなく、掃除機や化粧品やコーヒーだって、「煽り」なしには売れないだろう。

僕がこの文章を「プロの仕事だ」と感じたのは、「(アニメか?)」という短い一文で「刺激的な煽り」と「予想される批判からの防御」の両方を成立させているからであり、なにより、「読まれなければ意味がない」というプロの原則を理解しているからだ。綺麗事で動いていない。そこに、プロフェッショナル精神が感じられる。作家の森博嗣も、なにかの本で「プロにとって重要なのは、賞賛か批判かといった感想ではなく、実際に読まれた数である」というようなことを述べていたが、まさにその通りだ。

もちろん、広告だから、商売だからといって何を書いても許されるわけではない。だが、僕としてはこの広告は全然「アリ」だと思っている。僕が許せない広告というのは、たとえば、昨今だと水素水関連がそうだ。あれは、学者が何度も「健康に良いと証明されたわけではない」と言っているのに、企業側はそれを無視して、まるで健康に良いかのように広告で誘導している。ここまで来ると、もはや一種の詐欺だ。

しかし、「人生に、文学を。」はそうではない。運営が本気で「文学はアニメより上である」と思っていても、それはただの一意見だ。賛同はしないまでも、「まあ、そういう意見があってもいいよね」で流せる。仮に、文章内の「文学」と「アニメ」が逆であっても同じこと。こういう「科学的に証明できないもの」に関しては、それぞれの思想を尊重すべきだ。

選挙期間になると「表現の自由」についてあれこれ議論されるが、その一方で「思想の自由」について語られることはあまりない。僕の肌感覚だが、日本では「表現の自由」以上に「思想の自由」が軽視されているように感じる。ネット上の炎上事件を見ていても、犯罪ネタが炎上するのは当然としても、ただの意見違いが炎上しているケースでは、「そこまでして叩くことか?」と思うことが多い。

こういうことを言うと、「批判しているのであって、否定まではしていない」という人が出てくるが、とてもそうは思えないケースが散見している。批判が丸ごと思想の否定になっていたりする。もし、「批判しつつも、その人の思想は尊重している」ならば、もっとソフトな物言いができるはずだ。

今回の件でも、「文学なんて死んでしまえ!」と言っている人を見かけた。運営側が煽っているので怒るのは当然だし、批判するのももっともだが、「死んでしまえ」は言い過ぎだ。違うだろうか?

小説家という職業 (集英社新書)

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