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姫呂ノート

散文的な個人ブログ

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日本語の曖昧さの問題とこれからのコミュニケーションについて

読書

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

いつ頃からなのか、「ヤバイ」という言葉が多用されるようになった。凄いこともまずいことも「ヤバイ」のひと言で表現するので、傍から聞いていてどっちの意味なのかわからないことが多い。

こういうコミュニケーションはまずいのではないかと思っていたところ、『理科系の作文技術』という本と出会った。それを読んで、やはり日本人のコミュニケーションは問題だと思ったので、こうして考えを書く。

日本語と英語の違い

『理科系の作文技術』に、日本語と英語の違いについて触れられている箇所がある。

それによると、日本語の特徴は曖昧さにある。物事を断定することを避け、「たぶん」や「まあ」、「ほとんど」といった言葉を多用してぼかす癖がある。たとえば、欧米人が「5日間、風邪で寝込んでいた」というところを、日本人は「5日ほど風邪で寝込んでいた」という。「ほど」とつけることで、はっきり5日とは言わないのだ。

逆に英語の場合、曖昧さを排除し、はっきり断定することが良しとされる。たとえば、会議の場で「君はこの意見をどう思う?」と聞かれた際、「まあ、どちらかといえば賛成ですね」と答えようものなら、「それはつまりどういうことだ。不満があるならはっきり口にしろ」と怒られる。欧米では、曖昧な意見は、意見として認められないのだ。

この違いについて、本の著者は、文化の成り立ちが原因だろうと考察している。

日本の場合、地域ごとの特色はあれど、文化が大きく異るということはない。日本語というひとつの言語を共有していることもあり、根本的な価値観はどの地域も同じだ。そのなかで、日本人のコミュニケーションは自分の意見をはっきりさせることよりも、いかに相手に共感してもらえるかが重要になった。だからこそ物事を曖昧にして、相手に解釈を委ねることが言語テクニックとして発達してきた。現在の「ヤバイ」は、まさにこのテクニックの極地だ。

一方、昔からまったく異なる文化圏同士で交流してきた欧米では、共感に訴えるというやり方が通用しない場合がある。こっちが共感してもらえるだろうと思って言ったことが、相手を怒らせてしまうことがあるからだ。異文化間でコミュニケーションをとるために、まず何よりも自分の意見をはっきりさせることが重要だった。

重要性を増す欧米流コミュニケーション

『理科系の作文技術』は、欧米のように自分の意見をはっきりさせることの大切さを説いた本だ。本書が世に出たのは1981年と数十年も前のことだが、欧米流の言語テクニックを学ぶことの重要性は、時代が進むにつれていっそう増している。

インターネットが登場し、外国の人と簡単につながれるようになった。それに伴い、ビジネスもグローバル化している。今後、翻訳技術が発達していけば、この傾向はますます加速するだろう。

そうなると、日本人も否応なく、異なる文化圏の人々と向き合わなければならない。そのときは当然、日本流のコミュニケーションは通用しない。欧米のように、はっきり自分の意見を言葉にできることが必要とされる。

ところが、現在でも日本人は「共感」を重視している。物事は共感できるかどうかが絶対的な判断材料であり、ビジネスでも「相手の共感を得ること」が第一に考えられている。

しかし、上述のように、共感には「相手が自分と同じ価値観である」という前提が必要だ。その前提を共有していない相手に共感を訴えても意味がない。価値観が異なる相手とコミュニケーションをとるためには、自分の意見をはっきりさせることと、相手を理解しようと努めることのふたつの態度がいる。今の日本人の多くは、そのどちらも満たしていない。

この状況を変えるためには教育システムを見直すことだが、大きなシステムの変更には時間がかかる。今できるのは、まず日本人の1人ひとりが、少しずつ今の習慣を変えていくことだ。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))