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姫呂ノート

散文的な個人ブログ

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『地下室の手記』と現代の引きこもり問題を同一視する風潮について

読書

地下室の手記 (光文社古典新訳文庫)

地下室の手記 (光文社古典新訳文庫)

ドストエフスキーの『地下室の手記』という小説がある。地下室にこもっている40歳の男の哲学的思索を手記というかたちで披露した作品で、僕は光文社の文庫版を読んだのだが、あとがきで翻訳者がこんなことを書いていた。

現在、日がな一日パソコンの前に座って、インターネットだけで世界と繫がっているオタクや引きこもりの数は増える一方だという。そういう人たちも、地下室の住人と同様、本当は生身の人間と繫がりたいと、「生きた生活」を渇望しているに違いない。そういう時代であるからこそ、『地下室の手記』のアクチュアリティは一層増していると思われる。人生に孤独や痛みは避けられないと知り抜いたうえで、そこを突き抜けた何かに希望を託そうとする必死の叫びを聞き取っていただければ幸いである。

この部分を読んで、今まさに引きこもり生活を送っている僕は「余計なお世話だ馬鹿野郎」と心のなかで吐き捨てたのだが、気になって読後に『地下室の手記』の感想をネットで漁っていると、どうも上記のようなことを考えているのは翻訳者だけではないらしい。当のオタク本人ですら同じような感想を抱いている。どうやら、地下室の男を現代のオタクや引きこもりと重ねる見方は、この作品における一般的な批評のようだ。

ここで『地下室の手記』についてもう少し詳しく説明しておくと、主人公の40歳の男は、相当な自意識過剰である。この作品は2部構成になっていて、第2部では地下室にこもる以前の男の生活の様子が描かれているのだが、その様子がまた滑稽なのだ。たとえば、男は居酒屋で自分を押しのけた見知らぬ将校を何年も恨み続け、屈辱感を晴らすために、将校の道を塞いでやろうとする。ところが、つい道を譲ってしまうので、肩と肩をちょっとぶつける計画に変更する。が、その計画すらもなかなか実行できず、ようやく成功したとき、男は勝ち誇った気分で有頂天になる。もう一度繰り返すが、男は、ただ肩と肩をぶつけただけだ。しかも、相手の将校はぶつかったことに対してまったく気にも留めていない。このほかに、男が周りとうまく溶け込めない様や、娼婦に上から目線で説教して逆に馬鹿にされる様が描かれている。

そんな男だったから、僕はこの小説を引きこもり問題と絡める考えはまったく浮かばなかった。で、上記の訳者のあとがきを読んで驚いたのである。

しかし、改めて考えてみても、やはりこの作品を現代の引きこもり問題と絡めるのは間違っているだろう。

地下室にこもっているという点では、男は確かに引きこもりだが、現実の世界で一般的に言われている引きこもりとはまったく違う。なんせ男の自意識過剰ぶりときたら半端ではない。狂っていると言ってもいいほど極まっている。僕は、この男と現代の引きこもりの精神を同一視することは、努力してもできない。『地下室の手記』という作品は、当時のドストエフスキーが抱えていた内面の問題が顕れたものと解釈するのが、最も筋がいいと思う。

もちろん、『地下室の手記』を読んでシンパシーを感じる人もいるだろう。そういう人は、やはり男と同じように自意識が肥大化しているのかもしれない。ただ、少なくとも、僕はこの男と自分を同一に見ることはまったくできなかった。それはなぜかといえば、僕は自分の意識とは無関係に、病気による痛みの結果として引きこもっているからである。

ひと口に引きこもりといっても、いろいろなケースがあるのだ。だから、この『地下室の手記』を、まるで現代の引きこもり問題を理解するための手引書のように扱う批評に対して、僕は否と言うのである。誤解を蔓延させないために。